「緊縛(SHIBARI)」アートってなんだ? 悪ふざけの中にある、アートな煌めきの正体を探る
<私の中の「緊縛(SHIBARI)」の始まり……>
ある時、フェティッシュイベントの会場で、その時に飲んでいたシャンパンのボトルを、座興で緊縛師に縛ってもらったことがあります。ちょっとしたおふざけです、縛った緊縛師本人も深く考えずにやったことでしょう。
しかし、その完成品を見た瞬間、私は妙な胸騒ぎと快感を覚えました。「この感覚はいったい何なのだろう……?」
内省してみると、それは自分の中にある「征服と服従、支配と蹂躙」の感覚であったことがわかりました。自由で奔放なはずのシャンパンが、高貴な貴婦人のごときシャンパンが、蹂躙され完全な支配下にある……。それが得も言われぬ快感の源だったのです。
人間は誰しも、他の物を征服して服従させ、支配して蹂躙したいという根源的欲求があります。どんなに温厚な人でも、一見弱々しい人であっても、多かれ少なかれ支配欲・征服欲はあります。
旧約聖書に登場する「バベルの塔」を作り上げた最初の英雄ニムロド王は、奴隷たちを抑圧し、神に叛逆しますが、彼自身が元は奴隷であったと言われています。聖書に登場する最初の英雄(支配する側)は奴隷(支配される側)だったのです。
また、どんな社会にも「いじめっ子」と「いじめられっ子」が存在します。しかし、そのいじめられっ子の中にも、ヒエラルキーが存在しているのです。抑圧されている集団にも、抑圧する側と抑圧される側がいる。いじめっ子の多くがいじめられっ子の経験者であることはよく知られています。
こういった欲求は人間にとって根源的です。緊縛されたシャンパンは、人間の根源的で動物的な欲求を喚起させたのです。
しかし、実際の生活の中で、他者を征服して服従させ、支配して蹂躙することなどはできません。そんな事をしていては、騒動になり、かつ反社会的です。
そこで「緊縛(SHIBARI)」という日本の伝統的スキルが、それを具現化していたのでした。日本の芸術文化史を紐解けば、江戸時代の浮世絵に多くの緊縛作品が美しく、生き生きと描かれています。
ここでは、他者を緊縛し、征服・服従・支配・蹂躙するのは、ほんの一時的であることが重要です。縄を解けば、また元の状態に、一辺の傷さえつかず戻ります。この小市民的な欲望の実現が「緊縛(SHIBARI)」だったのです。そしてこれは、人の魂のささやかな解放さえも感じさせる物なのでした。
<「緊縛(SHIBARI)」が第2フェーズに……>
ちょっとした、おふざけから始まった「緊縛(SHIBARI)」。それは、人間が持つ根源的な欲求を充足させる、ささやかな喜びでありました。
これらの縛られている作品を見ると、なにかちょっとだけ心が昂揚して、解放される気分になりませんか? そこで、私は緊縛師に頼んで様々な物を緊縛してみたのです。
ここで、実に不思議な現象が起こりました。
「緊縛(SHIBARI)」は、所詮は軽い悪ふざけです。しかしその中に、ちょっとした煌めきを感じる物が見えたのです。一見、ただの悪ふざけと思える物の中にある煌めき、それはなんなのだろう? それについて深く考察し、ある結論に至りました。
「それは、アートなのではないか!?」と、思い当たったのです。
これに関しては、何冊もの本になっており、正当な分析もされているので、ここでいまさら論じるつもりがありませんが、デュシャンも、バスキアも、ボロックも、普通の人から見たら「悪ふざけ」に見えますよね? でも、それらは歴然たるアートの高みにいるわけです。
悪ふざけの中にある、アートな煌めきの正体とはなんなのでしょう?
それを探るために、こんな試みを思いつきました。
悪ふざけから始まった「緊縛(SHIBARI)」、これを使って簡単なアンケートによりその感覚、すなわち「悪ふざけの中にある、アートな煌めき」を定量的に見定めてみようと思います。
私が制作した緊縛作品を見て頂き、その印象を4段階で評価をしてもらうという方法です。
・かなりアートっぽい
・ちょっとだけアートかも?
・特に何も感じない
・悪ふざけに感じる
このアンケートを「日本・パリ・NY」、それぞれ「一般人、美大生、アートキュレーター」に協力していただき、結果を集計しようと思います。そしてこれにより、『悪ふざけの中にある、アートな煌めきの正体』に、迫りたいと思います。
さらに同時に、「こんな物を緊縛してみて!なにかアートな煌めきが生まれるかも!?」というリクエストも募集し、それを実施して結果も共有したいと思います
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