痛妻4です

 明日香をスカウトしてから2年間、比呂志は彼女を心血注いで育ててきました。彼女のスター性は疑うところもありませんでした。バラエティーを中心とする第一芸能部で、自分の目がいつも届くところに置き、まずは様々な経験をさせ更に大きく開花させようとしたのです。
 テレビ番組のアシスタントから、大勢のタレントと番組に出演する雛壇ゲスト、どこへ出しても明日香は満足のいく仕事をやり遂げました。
 ーーお疲れ様。また、今度一緒にやろうね。
 すべてのスタッフが笑顔で声をかけてくれました。テレビ局スタッフの中に、明日香のファンクラブが結成されてたという話もあちこちから耳に入りました。オーエスプロの社内でも、タレントの審美眼に長けた社員達には、やはり明日香の才能は輝いて写ったようです。グラビアの仕事はもちろん、オーエスプロがあまり得意でないモデルの仕事も次々と舞い込みました。そして、第二芸能部からもまだ脇役ですが女優の仕事も来るようになったのです。そして、比呂志は、やはり明日香の将来は、バラエティーではなく、女優として進ませた方が彼女が大きく羽ばたくと結論を出しかけていたところでした。
 ここ半年ほどは、様々な劇団のワークショップにも参加させてきました。本公演とは別の、演劇の練習会のようなものです。テレビドラマに次々出すより、まずは舞台演劇でその基礎を固めてやりたいと考えたからです。テレビドラマというのは、主演級はまだしも、いえ主演級にも実は何人かはいるのですが、全体的に素人に毛が生えたような演技力でもなんとかなってしまうものなのです。消費文化だからでしょうか、放送に間に合わせるため、予算内に収めるため、突き詰めた演技でなくてもOKを出して行かなくてはならない面があるのです。しかし将来、後世に残る大きな仕事をするためには、本当の女優と呼ばれるためには、やはり基礎から固めた演技の勉強が必要なのです。それは、単に演劇のスキルを学ぶという表面的なことではなく、明日香の感性に色々な舞台演出家の演出論を触れさせ、良い化学反応が出るのを期待してでもあるのです。
 舞台演劇、特にあまり商業主義でない劇団は、良きにつけ悪しきにつけ演技を突き詰めるしかないのです。戯曲家も、演出家も、劇団員も四六時中、演技のことを考えています。その情熱は大したものです。客が来なくてもいい、理解してもらおうなんて考えていない、そこまで自分たちを追い詰めている劇団もあるくらいです。芸能プロダクションの社員である比呂志は、そこまでは賛同できないものの、その姿勢や、演技論には、明日香の心に響くものがあると感じているのです。
 しかし、このワークショップ参加には問題点もあります。それは参加費です。大概1週間程度のワークショップに5万円ほどの費用をとられます。それが劇団の活動費にもなるので仕方ない世界なのです。そして、ワークショップで演出家の目にとまり、本公演出演となってもノーギャラです。いえ、ギャラの代わりに本公演のチケットを50枚から、100枚ほど渡されるのです。これを売って自分のギャラにしてください、ということなのです。もちろん、心ある知り合いの何人かは買ってくれますが、結局はタダでばらまくことになります。劇団員は出演しても実入りはない、でも客が見てくれるなら満足しなくてはならない、とあまりよろしくないスパイラルがかかることになるのです。
 この件について比呂志が社長室に呼び出されたのが2週間前でした。
 沖本ビルの最上階にある社長室。濃褐色に光るマホガニーのデスク、濡れたようなラムスキンを張られたプレジデントチェアー、その後ろには、アメリカの名門大学を卒業した証であるアカデミックドレスに身を包み誇らしげに笑う社長の写真、そして後光のように威厳を放つMBAの取得賞です。
 そして隙のないシャネルのスーツに身を包み、日、英、仏、中、4カ国語を操る美人秘書です。ちなみに、社長がどこからか連れてきたその秘書は、オーエスプロの正規入社試験は免除で採用され、しかも月給は、芸能生活35年の第一制作部長山田と同額という噂も囁かれる社長の懐刀です。これらの雰囲気が一体となってこの部屋に威圧感を演出し、入る者を従順にならざるを得ない気分にさせるのです。
 たった3年前に入社した2才年上の社長の前で、10年間身を粉にして会社に、そして芸能の道に尽くした比呂志は、職員室に呼び出された小学生のように小さくなっています。
「この支出の欄の『参加費』というのはなんですか?」
 社長のノーフレームの眼鏡が太陽を反射して光ります。
「それはですね、舞台演劇の世界では通例なのですが、ワークショップといいまして、芝居の練習の授業料のようなものです」
「勅使河原さん、貴方は何を考えているのですか?」
 光る眼鏡で社長の眼が直に見えず心理は読み取れませんが、それはまるで大きな瞳孔から放たれたような光線のようで、比呂志を責めている雰囲気なのは明らかです。
「うちの所属のタレントが、お金を稼ぐのではなく、払っているということですか?」
「はい、勉強ですので……」
「なるほど、勉強、ですか……」
 比呂志はいい機会かもしれないと勇気も持って一言つけ足すことにしました。社長は芸能に関して、利益率などという言葉を持ち出して、いつもドライに考え過ぎる傾向があるのが気になっていたからです。
「芸事は神様の恵みーー。先代の社長の言葉です。先代は芸能は農業と同じとよく仰っていました。時間をかけて、愛情を注いで、丹精に育て、やっと美しく実る。収穫はその御褒美、育てることに最大の喜びを感じないといけないと」
 そっと眼鏡を外した社長は目頭を押さえます。父親の言葉が心に響いたのでしょうか? 
「わかりました。どれだけの時間がかかって、どれだけの収穫があるかわからないものを育てるのが芸能だと仰るのですね。結構です。では好きなだけ勉強させてください」
 比呂志の言葉が、経営マシンのような社長に、本当の芸能の醍醐味を伝えたのでしょうか、比呂志は期待を持って次の言葉を待ちます。
「しかしその授業料と、浪費する時間で明日香クラスのタレントが稼ぐはずのギャラ、それを勅使河原さんの給料から天引きさせてもらいます。さかのぼって先月から」
 言い切って社長は軽く肩で息をつき、手の甲をこちらに向け振っています。それが退室を促す動作であると気付くまでに、比呂志は少し時間を要してしまいました。
 社長の考えは微塵も揺らいでいないようです。比呂志の後ろでは、バイリンガルの美人秘書がドアを開いて微笑んでいます。彼女の横を通り過ぎるとき、香った高級な香水の匂いと、耳元でかけられたネイティブな「チャオ」の言葉が、比呂志の脳裏に敗北感と共にいつまでも残っていました。

 「だから、あの芝居は絶対にやります」
 明日香と社長の睨み合いは続いています。第一制作部、第二制作部、フロアにいる全員が立ち上がって事の成り行きを見守っています。社長派の「誠也チルドレン」は、この跳ねっ返りのバカ女が、という冷淡な眼で、山田部長を中心とする古参組は、言ってやれ明日香、という期待の眼で見つめています。 
 魔力を秘めていると言っても過言でない明日香の目に見据えられても、社長は逸らすことなく真っ直ぐに鋭い眼光をぶつけています。二人の間の空気が歪むような気のぶつかり合いです。
「あの演出家は凄いです。もう少しでなにかがつかめます」
「なにかとは?」
「言葉では表現できないものです。演技の本質です。くだらないテレビ番組に出演している時間の方が無駄です」
「ほう、その無駄をかき集めて生活させてもらっているのは誰だっ」
 社長の鋭い語気にフロアの空気が震えます。。
「私はお金のためになんかやっていません」
 明日香も負けていません。
「だったらなんのためだ?」
 明日香が返答に詰まります。
「なのためだっ」
 社長が詰めます。
 どう答えて良いのか、明日香の言葉は止まったままです。まだ19才の少女が、自分はなぜ芸能活動をしているのか、一言で言い表すことは難しいのかもしれません。夢のため、情熱のため、自己表現のため、両親のため、ファンのため、愛のため……色々な熱い思考が、ない交ぜになって彼女の頭の中を巡っていることでしょう。
「だから、なんのためだっ、このクソガキ!」
 社長が壁を思いきり叩きます。その音に圧されるように。思わず口をついて明日香が発した一言が問題でした。
「勅使河原さんのためです」

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